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最近読んだ本

医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か 小松秀樹 朝日新聞社
                               青字は本からの引用です
この本は読もうと思って読んだのではありません。そこらに転がってたのでちょっと手をだしたのです。ぶらぶらと読んでいました。そこは著者のメインの伝えようとする部分ではないところなのですが「おー」というところがたくさんありました。こころの中に漠然とはあるのだけれど形になっていない思いが、他の人によってはっきりと言われている、そんな感じです。そして、さらにその向こうのことまでが目の前に示され、感心してしまう。
                         
一つ目、ここは中西準子『安心・安全』の氾濫が作り出す不安」(中央公論)2005年3月号からの引用の部分なのですけど
安全を得るためには通常莫大な費用がかかるので、自分で支払う場合にはほどほどのところで誰もが妥協するが、責任が他にあるとなれば、その要求も際限なく大きくなってしまう。「安全」は、目指すべき方向性を示す目標のはずだったが、いつのまにか、際限のない安全を要求する権利があるという誤解に発展している。そして、それが満たされないと、不安になるのである。いや、不安を言い募っていいと思うのである、それは自分の責任ではないから。
そうですね。なるほど。
「安心」という個人の心が大きく関係することが政策目標に入ってしまった
 「安心」という心の状態は、システムで得られるものではないし、また、通常は、生きている間にはなかなか得られない。 もし、得られるとすれば、個人が自己との闘いの末、ある種の欲求を捨てることと引き換えに得られるもののような気がする。

うーんそうなんだ。
その安心を与えるのは国や企業であるとなれば、だれもが自己との闘いをやめてしまい、結果として不安が大きくなる。私は、当初、安心というのは飾り言葉のように捉えていて、それを本気で受け取る人がいるとは思っていなかった。ところが、企業の経営者が年頭挨拶で「これからは、企業は安心を与えることを目標に」と述べるのを耳にし、テレビのキャスターが、「安全と言えるかもしれないが、国民は安心感を持っていない、そこが問題だ」というような発言をし、「老後は不安ですか?」というアンケートをとって、六割もの人が不安と答えた。国の政策はどうなっているのかと怒るレポーターを見ていると、不安との闘いという個人の心の課題が、いつの間にか国や企業の責任に代わりつつあることを実感するのである。これでははかえって不安、不安という人が増える。
そのテレビのキャスターが言ってるのは見たような気がします。

それから、二つ目、
ここはいいとして患者は疑心暗鬼で医療をみるようにになってきた。医療の結果が本人の望んでいた通りでないと、とげとげしい反応が出てくるケースが明らかに多くなってきた。ここから
この背景は二つある。一つは、自分の行為にたいしては100パーセントの完璧を要求しないが、一旦、これが他人の行為となると100パーセントの完璧を要求するという、人間に備わった困った性質である。これは「身勝手」と言い換えてもよい。心がこういう動きかたをしても、たいていの人は、はっと気づいて「お~ まず」となるのですが、自覚なしで臆面もなくこうなる人がいるんですよね。
もう一つの背景は傷害者や死者への思いやりの過度な社会規範化である。これを判官びいきという大衆感情の社会化であり、冷静な判断の対極にある。かつて、大平総理大臣、小渕総理大臣が在職中に死亡したときのメディアの反応を思い出していただきたい。直前まで悪口の書き放題だったメディアが、死亡した途端、がらっと論調を変えた。もし、国政の運営に瑕疵があるとすれば、個人の死とは無関係である。政治はその後も続くのである。メディアが責任を自覚するのなら、死亡した宰相の政治行動への批判は死後も変えてはならない。死者をむち打つことへの社会からの反発を敢えて引き受けるべきである。ほんとにそう。感情的。このことだけではなく、新聞もテレビも、感情にうったえるような報道をしていると思う。

その次
批判受容力「医師にとってもっとも重要な能力は、自分への批判をおだやかに検討し、これを向上の機会とすることである」
この言葉があてはまるのは医師とはかぎらない。あらゆる専門家、管理者にあてはまる。個人である必要もない。
そういう人だけでなく普通の人間にもあてはまるでしょう。
外交評論家の岡崎久彦氏は、アメリカのインテリの間で意識されている国家としてに「挑戦受容力」とでもいうべきものを紹介している。
「国家の資質に対するこれ以上フェアなテストがあるだろうか。深く考えれば、アメリカ社会に対するクレムリンの挑戦に対して不平を言う理由などない。国家としてのアメリカの安全が、国民が結束して道徳的政治的なリーダーシップをになうという歴史的課題をはたせるかどうかにかかるという、この不可避の試練をアメリカ国民の当て給もうた神の摂理にやがては感謝することになろう」ジョージ・ケナン氏である。
「中国の挑戦は、これから何十年と続く多元的なものであり、米ソ競争よりも生産的なものとなる可能性がある。それは、それぞれの国の、貯蓄と当市、教育、保健、そひて政治の正当性の競争であるが、もし中国との競争のために米国ももともと必要だった諸調整、改革を行わねばならないとしたならば、それは苦しいことではあるが、歓迎すべきことである」中国専門家ランプトン氏である。
アメリカって、自分勝手でどうしようもないところといいところがあるんだけど、前向きなのですね。
それから
日本の官僚制度はそう捨てたものではない。真のエリートがかならず含まれている。損得だけを考えるのなら、検事になったり、官僚になったりしないと思う。もっと少ない労働時間とか、多い収入の職業も選べたはずですからね。身近に該当者はいませんが、マスコミは悪いもののように、感情をあおりすぎではないかと常々思っています。
自覚的エリートの生き甲斐とは何か。大げさだが、歴史に参加することに違いない。外から批判があったとき、真のエリートが意味なく反発するようなことは考えられない。エリートは責任を自覚している。歴史の転換点に遭遇したとき、正しい方向に導くことがエリートの最大の責任であり、常にそのときに備えている。歴史の流れは危うく、未来はいかようにも動く。歴史の必然性はマルクスの妄想である。歴史を無意味に停滞させたり、間違った方向に導いてはならない。外部からの批判があったとき、きびしいものであればあるほど、しっかり考えるに違いない。問題が大きいとき、エリートは本質をみようとすべきである。本質的な変革がすなわち歴史の転換である。エリートはこれを死処と考えなければならない。小手先の対応をせずに、知恵を絞って、広く意見を聞いて、苦しくても、批判者が自分の批判の薄っぺらさを恥じるような、万全の改革を開始するだろう。これこそ真のエリートの責務である。著者は本来の仕事だけでも十分多忙なはずなのに、東大の講座を受講したり(今は講義する方とか)、こんな読み応えのある本を書いています。「自覚的エリート」とは、まずご自身のことなんだなと思いました。

最後に
「世論」とは何か 一般的に同じような内容の報道回数が急増する場面があると「世論」が形成されたと表現される。私は、「世論」ということばは、その表面上の意味と実体に乖離があると考えており、使用する習慣がない。本書で何箇所か「マスコミ通念」ということばを使っているが、これは私が考える「世論」の実体面を表現したものである。そう、新聞とかテレビで「世論」が・・・というと、胡散臭い!と思うことも度々ありました。どうして、どこが、どういうふうに胡散臭いか、例を挙げ、筋道たてて書いてあります。
やっぱり うーん
ここには書きませんが、著者がこの本を書いた主旨もはっきり伝わります。読みやすいし、この中身で1600円は安いと思いました。
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by mamineko110 | 2007-04-29 23:45

うだうだ

今日も夕方からは「寒い」と思う。「春寒」という言葉を実感する。灯油のヒーターを焚いてます。
やっぱりエアコンじゃだめ。
ホームセンターの灯油販売は3月いっぱいで終了。巡回販売の車も来なくなった。
ガソリンスタンドは苦手。ところが、最近セルフの店が増えて、ふっふふっふ。maminekoでも買いに行けます。

もっとも先週はこんなものじゃなかった・・・咲いたチューリップはそのまま散らずにフリーズ。
木曜日都心へでかけたら、コート姿の人を何人も見た。
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by mamineko110 | 2007-04-23 23:36

ひたち海浜公園

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4月15日、朝の新聞で、スイセン、ネモフィラ等が見頃を迎えていると紹介されていた。ネモフィラの丘の写真に「わ~ すごーい」 急に思い立ち 「国営ひたち海浜公園」へ。ゲート前のジョイフル本田へは行ったことがあるけれど、なんとなくつまらないような気がして 今までは行ってみようとしなかったのだ。
都心から2時間弱のこの公園は、さすが国営ですばらしく大きい。管理もいい。おまけに、この日は運営する「国土交通省」のなにかの記念日ということで、入園料はタダ。
どうして国土交通省の管理なんだろう? ここは昔なんだったんだろう? 軍用地?
帰って調べたところ、「吉野ヶ里」なども国営公園で国土交通省の管理。と、いうことは、国営公園だから、国土交通省の管理、というだけのことかも。いつもながら余計な方向に頭が行ってしまう。
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男性は血管などパイプ系がダメになり、女性は足腰など運動機能関連がだめになって お終いになるという。「あんたは余計な知識を頭に入れすぎるから肝心なことが入らない」とも言われる。と、いうことは、maminekoはしょうもない考えや余計な知識で脳が詰まる、パイプ詰まりの男性型? こういうのも生活習慣病の一つかも。
ところで、今、言ってることは 論理が通っているのだろうか?
論理的か、そうでないかに厳しい人物が身近にいる。時々「びしっ」と言われるので、突然気になりだす。
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総面積は350ha。構成する1つ1つの庭園や設備の規模が圧巻。スイセンは500種以上約100万本、ネモフィラ、約400万本、菜の花、約5万本、チューリップ、123種約30万本、それぞれの区域でこれだけの数が咲き誇っているので、思いきりお花見をした気分になる。ゆったりしていたら、いつのまにか4時間以上経っていた。
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中でも一番は、今日のお目あて 「みはらしの丘」に咲くネモフィラ。
うしろには太平洋。しばしの別世界。
d0053578_11241066.jpgこの日は「春爛漫~ひたちなか市PRの日~」とのことで、ゲートを入ってすぐに地元の名産品の屋台が何軒も出ていた。いいにおい! まずはあわび。貝の焼けるいいにおいにつられて、つい早足に。小さいけれど生きたままのあわびが網の上。ぶるっと動く。地元で養殖されている5年ものだそうだ。もうちょっとしっかり焼いたほうが好みだけど、おいしい。d0053578_11242849.jpg

他にも常陸牛の牛丼、アンコウのリゾット、地元産ハムの串焼き、地元産カツオ入りコロッケ。
ハムはボリューム満点で、網の上で香ばしく焼けた大きな串が何と400円。焼けているのを見た感じではどう見てもお肉。食べながらゆっくり考えると、これはやっぱりハムかなぁ~ ハムだ。しっかりめのおいしい味で大満足。「こんな大きなの食べられない」と思ったけど、串を持ったままお花見しているうちに食了。
コロッケの方は、じゃがいもでなくサツマイモを使っているような不思議な味。はじっこをちょっと齧らせてもらったので、かつおとのコンビネーションの具合は不明。

d0053578_15385523.jpg後は、公園から車で15分程度にある観光地と言っていい魚市場「那珂湊おさかな市場」に向かった。ここへは何度も来ているので「また~」と言う気もする。
いつも行列が出来ている回転寿司屋は、午後2時過ぎてもまだ行列。ここは地物のネタがたくさんあるのが特徴。イシダイ、クエ、サワラ、ホウボウ、メダイ,ハタ等。ここへ最初に連れて来てくれたMちゃんは「わたしはそういうのを食べるのが好き」と言っていた。
寿司屋で「おすすめ」と表示してあるものは、ここの湊であがったものらしい。あとで、魚市場の方へ行って気づいた。
左の写真は「ハタ」 大きい魚である。容貌魁偉。


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さて那珂湊で連れが楽しみにしているのは、市場で生の岩牡蠣を食べること。目の前で岩牡蠣を剥いてもらって、軽く水洗いしてポン酢を掛けて食べる。ちょっと磯臭いけれど、これが絶品! だそう。
maminekoはこういうのはさっぱりダメだけれど、初めて見たとき、「これは喜ぶよ☆」とピンと来た。値段も1つ250円とお安い。おいしくてお値打ちだと、なおさらおいしく幸福感がますのは 貧乏性ゆえか。家族性貧乏性症候群。
東京には世界各地の牡蠣を食べさせるオイスターバーがあるそうだけれど、どのくらいなんだろう。

この市場は魚種は多いけれど、販売単位が大きいのでmamineko向きではない。お値打ちのものもあるが、値段も安いわけではない。見るだけにして、買って帰りたくないのだけれど、ここまで来て何も買わないわけにはいかない。視線が怖い。
1000円の車海老を買いたいというのは却下。彼の頭の中のグリルから出て香ばしく焼けた海老が見えるような気がする。でも、お昼にたくさん魚食べたでしょう? この海老はこの近くで捕れたものではないしね。
鯖が4本500円。新しいし間違いなくお値打ち。でも、こんなに食べられないよ~  でも何も買わないわけにはいかない。鯖なら、煮て、焼いて、締めて時間差をつけて食べられる。
大きめので3本のを見つけたので、ここらで手を打つことにして購入。やれやれ。

「秋の紅葉狩は、紅葉を持ち帰らなくともよい。 が、春のお花見は、花を見るだけでは、花見ではない。」と言う。花の下で飲食しないと花見をしたことにならないそうだ。
この春も随分あちこちの花を見た。が、その意味なら、花の下にこそ座らねど、串を手に持ち逍遥の、今日こそが「花見」。
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by mamineko110 | 2007-04-17 00:12

つくづく考えること

無添加食品、無農薬野菜、自然食品などの言葉を随分以前からよく耳にします。
でも、添加物や農薬なしでは今の社会を支えることができないはず。そこのところの折り合いを、どのように、どの程度つけていくのかずっと気になっていました。

銀行のホームページを見ていて、瓢箪から駒という感じで、「食のリスク評価・管理の基礎」という講座を見つけました。社会人の再教育講座として公開されているのですが、申し込み書を書いていると、所属・業種などを細かく書く項や志望動機を書く項があり、 うは~となりました。こういうのって、誰でも行ってよい、名前と連絡先だけ書けばよいと思いこんでいたのです。
「興味があるから聞きたい」という以上のものではないのですが、200字程度書くこと、とあり、しかたなく針小棒大に拡大して書きました。

ここまででどきどきしていましたが、折り返し「申し込まれた方には、概ね受講していただくことを考えています」というメールが来て一安心。

ところが、直前になって、連絡や注意事項のメールが次々に来ました。どれも固い文章。そういうのには不慣れ。だんだん気が重くなって来ました。

講座の初日当日、でかける直前、前の用から戻る車中で 連れに
「初めてのところへ行くので、早めにでかけるんだけど、緊張してるし、なんだか気が重いんだ」とつぶやきました。
「何か講演でもするの?」

そうね、人の話を聞くだけだものね。それでうだうだ言うのはおかしいね。
それにしても、人前で話をするとしたら、どんなことを話せるかなぁ~ 
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by mamineko110 | 2007-04-15 23:54