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2007年 04月 29日 ( 1 )

最近読んだ本

医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か 小松秀樹 朝日新聞社
                               青字は本からの引用です
この本は読もうと思って読んだのではありません。そこらに転がってたのでちょっと手をだしたのです。ぶらぶらと読んでいました。そこは著者のメインの伝えようとする部分ではないところなのですが「おー」というところがたくさんありました。こころの中に漠然とはあるのだけれど形になっていない思いが、他の人によってはっきりと言われている、そんな感じです。そして、さらにその向こうのことまでが目の前に示され、感心してしまう。
                         
一つ目、ここは中西準子『安心・安全』の氾濫が作り出す不安」(中央公論)2005年3月号からの引用の部分なのですけど
安全を得るためには通常莫大な費用がかかるので、自分で支払う場合にはほどほどのところで誰もが妥協するが、責任が他にあるとなれば、その要求も際限なく大きくなってしまう。「安全」は、目指すべき方向性を示す目標のはずだったが、いつのまにか、際限のない安全を要求する権利があるという誤解に発展している。そして、それが満たされないと、不安になるのである。いや、不安を言い募っていいと思うのである、それは自分の責任ではないから。
そうですね。なるほど。
「安心」という個人の心が大きく関係することが政策目標に入ってしまった
 「安心」という心の状態は、システムで得られるものではないし、また、通常は、生きている間にはなかなか得られない。 もし、得られるとすれば、個人が自己との闘いの末、ある種の欲求を捨てることと引き換えに得られるもののような気がする。

うーんそうなんだ。
その安心を与えるのは国や企業であるとなれば、だれもが自己との闘いをやめてしまい、結果として不安が大きくなる。私は、当初、安心というのは飾り言葉のように捉えていて、それを本気で受け取る人がいるとは思っていなかった。ところが、企業の経営者が年頭挨拶で「これからは、企業は安心を与えることを目標に」と述べるのを耳にし、テレビのキャスターが、「安全と言えるかもしれないが、国民は安心感を持っていない、そこが問題だ」というような発言をし、「老後は不安ですか?」というアンケートをとって、六割もの人が不安と答えた。国の政策はどうなっているのかと怒るレポーターを見ていると、不安との闘いという個人の心の課題が、いつの間にか国や企業の責任に代わりつつあることを実感するのである。これでははかえって不安、不安という人が増える。
そのテレビのキャスターが言ってるのは見たような気がします。

それから、二つ目、
ここはいいとして患者は疑心暗鬼で医療をみるようにになってきた。医療の結果が本人の望んでいた通りでないと、とげとげしい反応が出てくるケースが明らかに多くなってきた。ここから
この背景は二つある。一つは、自分の行為にたいしては100パーセントの完璧を要求しないが、一旦、これが他人の行為となると100パーセントの完璧を要求するという、人間に備わった困った性質である。これは「身勝手」と言い換えてもよい。心がこういう動きかたをしても、たいていの人は、はっと気づいて「お~ まず」となるのですが、自覚なしで臆面もなくこうなる人がいるんですよね。
もう一つの背景は傷害者や死者への思いやりの過度な社会規範化である。これを判官びいきという大衆感情の社会化であり、冷静な判断の対極にある。かつて、大平総理大臣、小渕総理大臣が在職中に死亡したときのメディアの反応を思い出していただきたい。直前まで悪口の書き放題だったメディアが、死亡した途端、がらっと論調を変えた。もし、国政の運営に瑕疵があるとすれば、個人の死とは無関係である。政治はその後も続くのである。メディアが責任を自覚するのなら、死亡した宰相の政治行動への批判は死後も変えてはならない。死者をむち打つことへの社会からの反発を敢えて引き受けるべきである。ほんとにそう。感情的。このことだけではなく、新聞もテレビも、感情にうったえるような報道をしていると思う。

その次
批判受容力「医師にとってもっとも重要な能力は、自分への批判をおだやかに検討し、これを向上の機会とすることである」
この言葉があてはまるのは医師とはかぎらない。あらゆる専門家、管理者にあてはまる。個人である必要もない。
そういう人だけでなく普通の人間にもあてはまるでしょう。
外交評論家の岡崎久彦氏は、アメリカのインテリの間で意識されている国家としてに「挑戦受容力」とでもいうべきものを紹介している。
「国家の資質に対するこれ以上フェアなテストがあるだろうか。深く考えれば、アメリカ社会に対するクレムリンの挑戦に対して不平を言う理由などない。国家としてのアメリカの安全が、国民が結束して道徳的政治的なリーダーシップをになうという歴史的課題をはたせるかどうかにかかるという、この不可避の試練をアメリカ国民の当て給もうた神の摂理にやがては感謝することになろう」ジョージ・ケナン氏である。
「中国の挑戦は、これから何十年と続く多元的なものであり、米ソ競争よりも生産的なものとなる可能性がある。それは、それぞれの国の、貯蓄と当市、教育、保健、そひて政治の正当性の競争であるが、もし中国との競争のために米国ももともと必要だった諸調整、改革を行わねばならないとしたならば、それは苦しいことではあるが、歓迎すべきことである」中国専門家ランプトン氏である。
アメリカって、自分勝手でどうしようもないところといいところがあるんだけど、前向きなのですね。
それから
日本の官僚制度はそう捨てたものではない。真のエリートがかならず含まれている。損得だけを考えるのなら、検事になったり、官僚になったりしないと思う。もっと少ない労働時間とか、多い収入の職業も選べたはずですからね。身近に該当者はいませんが、マスコミは悪いもののように、感情をあおりすぎではないかと常々思っています。
自覚的エリートの生き甲斐とは何か。大げさだが、歴史に参加することに違いない。外から批判があったとき、真のエリートが意味なく反発するようなことは考えられない。エリートは責任を自覚している。歴史の転換点に遭遇したとき、正しい方向に導くことがエリートの最大の責任であり、常にそのときに備えている。歴史の流れは危うく、未来はいかようにも動く。歴史の必然性はマルクスの妄想である。歴史を無意味に停滞させたり、間違った方向に導いてはならない。外部からの批判があったとき、きびしいものであればあるほど、しっかり考えるに違いない。問題が大きいとき、エリートは本質をみようとすべきである。本質的な変革がすなわち歴史の転換である。エリートはこれを死処と考えなければならない。小手先の対応をせずに、知恵を絞って、広く意見を聞いて、苦しくても、批判者が自分の批判の薄っぺらさを恥じるような、万全の改革を開始するだろう。これこそ真のエリートの責務である。著者は本来の仕事だけでも十分多忙なはずなのに、東大の講座を受講したり(今は講義する方とか)、こんな読み応えのある本を書いています。「自覚的エリート」とは、まずご自身のことなんだなと思いました。

最後に
「世論」とは何か 一般的に同じような内容の報道回数が急増する場面があると「世論」が形成されたと表現される。私は、「世論」ということばは、その表面上の意味と実体に乖離があると考えており、使用する習慣がない。本書で何箇所か「マスコミ通念」ということばを使っているが、これは私が考える「世論」の実体面を表現したものである。そう、新聞とかテレビで「世論」が・・・というと、胡散臭い!と思うことも度々ありました。どうして、どこが、どういうふうに胡散臭いか、例を挙げ、筋道たてて書いてあります。
やっぱり うーん
ここには書きませんが、著者がこの本を書いた主旨もはっきり伝わります。読みやすいし、この中身で1600円は安いと思いました。

by mamineko110 | 2007-04-29 23:45 | Comments(7)